アギナルドの亡命と帰還
ボニファシオと共にフィリピン革命を起こし、対立の末、ボニファシオを処刑した後に1897年11月ビアクナバト共和国を設立させたアギナルドは、その年の12月に、スペインとの和平交渉を持ち和平を受け入れます。その結果、フィリピンでの改革の実行の確約と多額の補償金と引き換えにアギナルドら独立派首脳部は香港に亡命することになりました。そしてアギナルドは香港へと出発する際に、集まった群衆(ぐんしゅう)に対して、「スペイン、スペイン皇帝、総督、平和及び、永遠にスペイン領のフィリピンに万歳!」と叫んだそうです。この言葉から考えるに、アギナルドはスペインとの戦いが形成不利とみて、自分たちの利益を守るために妥協に走ったといえるのではないでしょうか。 しかし、ボニファシオらのグループの流れを汲む人々はなおも独立をめざす戦いを各地で継続していきました。戦いは継続していたものの、やがてこのままスペイン軍の猛攻の前にフィリピン革命は終息(しゅうそく)すると思われていましたが、ここで転機が訪れます。1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとして米西戦争(スペインとアメリカの戦争)が勃発しました。この米西戦争の直前に亡命先の香港でアメリカとの間に独立援助の約束を得ていたアギナルドら亡命した独立派指導部は、マニラ湾での海戦(1898年4月30日〜5月1日)でのアメリカ艦隊の大勝利を経て、1898年5月19日、アメリカ軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たします。
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フィリピン第一共和国(マロロス共和国)
米西戦争の最中の1898年5月24日、アギナルドは本拠地であるカビテで「独裁政権」の樹立を宣言します。1898年6月12日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任します。この独立宣言を行った6月12日は現在のフィリピンの「独立記念日」になります。その後、まもなく独裁政府は「革命政府」と組織を改めて、地方政府の組織化が始まり、1898年7月15日アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が作られました。1898年7月末には1万を超えるアメリカ陸軍部隊がマニラに到達します。その間にもアギナルド率いるフィリピン革命軍はカビテ州を征圧した後、スペイン軍を追撃し、植民地政府をマニラのイントラムロス地区に追い詰めます。この危機に際してスペイン政府は当時のアウグスティン総督を更迭(こうてつ)して、1898年8月5日に新総督にフェルミン・ジョーデンが着任、フィリピン革命軍を除いたアメリカ軍とスペイン軍の2者間で和平工作を始め、アメリカ軍に受諾(じゅだく)された密約(みつやく)に基づいて、1898年8月12日にアメリカ軍はマニラを包囲していたフィリピン革命軍に包囲の一部解除(かいじょ)を要請(ようせい)します。翌日の1898年8月13日にアメリカ軍単独でマニラに入り、フィリピン革命軍に降伏することを拒んだスペイン植民地政府はアメリカ軍に単独降伏をします。フィリピン革命軍はスペイン軍とアメリカ軍の交渉のテーブルにつけてもらえず、蚊帳の外に置かれたわけですね。この辺からフィリピン革命軍とアメリカ軍の間に亀裂が走っていきます。1898年8月13日、植民地支配の中心地であるマニラを占領してスペイン軍を降伏させたアメリカ軍ですが、なんと、それまで軍事的に貢献してきたフィリピン革命軍のマニラの立ち入りを許可しませんでした。雲行きが怪しくなってきましたね。マニラに立ち入れないので独立派は、1898年の9月10日、マニラ近郊のブラカン州マロロスを臨時の首都とします。そして1898年9月15日にはフィリピン人の代表より作られた革命議会をこの地で開きます。この会議に出席した国民の代表議員は、ほとんどすべて富裕階級、中産・知識階級のエリートで構成されました。さらに翌1899年1月21日に独自の憲法(マロロス憲法)を制定し1月23日に「フィリピン第一共和国」(マロロス共和国)を樹立します。大統領にはアギナルド、首相にはマビニが変わらずに就任します。この時点でフィリピン第一共和国政府はミンダナオを除くフィリピンのほぼ全土を掌握していました。なぜ、ほぼ全土なのかというと、スペイン統治時代から変わらずにイスラム教徒の勢力がミンダナオ、スールー諸島などを支配していたからですね。
米比戦争
しかし前年の1898年12月10日、米西間のパリ講和条約で2千万ドルと引き替えにスペインよりフィリピンの主権を獲得したアメリカは、12月21日マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定します。マビニ首相により進められていたアメリカとの交渉も暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいます。そのような中、アメリカ側の支配地域に立ち入ったとされたフィリピン兵がアメリカ兵に射殺されたのを契機に1899年2月4日にアメリカとの戦争(米比戦争)が始まります。この時のフィリピンのほとんどは、アメリカとフィリピン第一共和国が実効支配する地域に分かれていました。1899年3月31日には早くも首都マロロスが陥落します。それ以後第一共和国政府は中部ルソン地方のタルラク州・ヌエバ・エシハ州を転々と移動することを余儀なくされました。1899年6月5日には、第一共和国の最も優れた軍人といわれていた、アントニオ・ルナ将軍がアメリカ占領を受け入れる自治派によって、暗殺されてしまいます。ルナ将軍暗殺後、軍は規律を失い、統率力・求心力の低下を招いてしまいました。また、アメリカの新聞にはアギナルドが将軍殺害に関与したことが報じられました。それは、単純過ぎる結論かもしれませんが、アギナルドがまた妥協的な考えのもとに、アメリカとの停戦を考えていたとしたら好戦的なルナ将軍の存在が邪魔になり暗殺したのかも知れませんね!また1899年7月21日にはフィリピン独立革命を支援するための武器弾薬を運んでいた日本船籍の布引丸が東シナ海寧波(ニンポー)沖で暴風雨によって沈没するという布引丸事件(ぬのびきまるじけん)がおこります。アギナルドによって日本に派遣されたマリアノ・ポンセが日本の政治活動家・宮崎滔天(みやざきとうてん)などの支援を受けて、米比戦争のための武器弾薬とそれらを運搬する布引丸を購入して布引丸を出港させたが、途中で、暴風雨により沈没してしまったというのがこの事件の内容です。フィリピン独立革命に参加するため、有志の日本人も同乗していましたが、日本人船長以下19名が犠牲となりました。その後、この布引丸事件と一部の日本人によるフィリピン革命参加の企てを知ったアメリカは日本政府に厳重に抗議し、日米両国による監視が厳重になりました。これに加えフィリピン独立派による資金も枯渇(こかつ)したこともあって、日本からの武器購入・輸送計画は頓挫(とんざ)しました。そして11月12日アギナルドはパンガシナン州バヤンパンで正規軍の解体と遊撃隊によるゲリラ戦を布告し、ルソン北部の山岳地帯に撤退します。アギナルド率いる第一共和国はゲリラ戦しか展開できないほどに追い詰められてしまったわけなのですが、それ以降、独立派が圧倒的に優勢なアメリカ軍を相手にねばり強さを見せます。アギナルド政権下で非主流派として脇に押しやられていたボニファシオ派や革命的宗教結社などは激しいゲリラ戦を展開して長期間にわたり米軍を悩ませました。このようにフィリピン革命軍は粘り強く戦いますが、さらにアメリカ軍に追い詰められていきます。
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第一共和国の解体とアメリカの支配
そしてついに、アギナルドは、1901年3月23日、イサベラ州でアメリカ軍に捕らわれてしまいます。捕らわれたアギナルドは4月1日に早々とアメリカへの忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じます。これによりフィリピン第一共和国は事実上解体されます。(同じく捕虜となったマビニが断固として服従を拒否した態度に比べて、この事はアギナルドの人気を著しく低下させる結果となりました)こののち各地で独立派幹部の投降が相次いだことから、同年1901年7月にアメリカは軍政より民政へ移行し、早々と米国に忠誠を誓っていた有力な親米派フィリピン人を行政機構に登用します。有力者を取り込むことでアメリカ統治体制の安定をはかりました。ところがアギナルドに従わず「革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍など抵抗を継続する勢力もあり、1902年4月のマルバール将軍投降後の、1902年7月4日になってアメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言します。しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・サカイ率いるゲリラ部隊(1904年〜1906年)などの反米ゲリラはやまず、ミンダナオ、スールー諸島などにあるイスラム教徒の勢力の抵抗も激しく、アメリカのフィリピン全土の完全な主権が確定するのは1916年の事でした。ちなみに1898年から1902年の間にアメリカ軍のフィリピンでの戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、アメリカ国内のインディアン戦争においてジェノサイド=大量虐殺に手を染めた者達でありました。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、アメリカ国内での戦争への賛成意見は減少しました。こうしてフィリピン(および東南アジア)史上初の植民地独立革命はアメリカの侵略により挫折に終わりました。
まとめ
スペインとの和平と米比戦争では、アギナルドの強いものに巻かれるという性質が目立ちましたね。捕らえられてアメリカへの忠誠を誓ったアギナルドですが、この後の第2次世界大戦下に日本軍がフィリピンに攻め込むと日本軍に積極的に協力をします。まるでカメレオンの様というか、フィリピン独立への道筋を作った人物なのですが威厳が微塵にも感じられませんね。スペインによる支配の後はアメリカという大国に支配されてしまうフィリピンの歴史に対して悲哀も感じますね。その後、アメリカの植民地時代や第二次世界大戦中に日本統治を経てフィリピンが真の独立の実現を果たすのは、第二次世界大戦後の1946年ですが、これはまだ先のお話です。ではその後のフィリピンの歴史についてはまだ次の機会に!
参考文献:
フィリピンの事典 石井米雄監修 同朋舎
物語フィリピンの歴史 「盗まれた楽園と抵抗の500年」 鈴木静著 中公新書
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規律を重んじるルナ将軍に反発する、地方の有力視族の子弟、軍人、司令官も多く、最後には、ヌエバ・エシハ州のカバナトゥアンで同胞の手で、銃とボロ(刀)でめった刺しにされ殺されてしまいます。
ルナ将軍を演じた俳優は、ジョン・アルシリャ(John Arcilla)当時50歳。貫禄の将軍を演じましたが、実は、ルナ将軍の年齢はわずか32歳。将軍という責任ある立場が彼を実年齢よりも年老いた男に見せていたことは確かでしょう。
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