ホセ・リサールの著作と思想は、多くの人々に多大な影響を与えました。今回は、リサールの思想に影響を受けたフィリピン革命の指導者である、ボニファシオ、アギナルドについても取り上げていこうと思います。そしてリサール、アギナルド、ボニファシオのフィリピンの歴史の3大偉人の中で、誰がフィリピン独立の「一番の英雄」なのか?私達の考えを発信したいと思います。リサールの生涯については、前回の記事で取り上げました。では、ボニファシオとアギナルドとは一体どのような人物なのでしょうか?
アンドレス・ボニファシオ(1863~1897)
ボニファシオはリサールよりも2歳若く、1863年11月30日にマニラ市トンドのスラム街の家柄の低い貧民の子として生まれます。ボニファシオは初等教育を受けただけでしたが、苦労して多くの外国語を独学で勉強して、独自の革命理論を築きあげます。彼は革命による、フィリピンの社会的平等を目指していました。そして、リサールによりフィリピン同盟が結成されるとこれに参加します。その後、リサールの逮捕・流刑をきっかけにフィリピン同盟が解体すると、1892年7月7日にトンドで、マニラの貧民・平民を中心にカティプナンを結成します。ボニファシオは、カティプナンでは、フィリピン同盟とは異なる、武力によるスペイン支配からのフィリピン解放を唱えます。リサールから多大な影響を受け、その熱心な支持者でもあったボニファシオですが、リサールをはじめとする裕福な知識人が中心のフィリピン同盟の平和的な改革路線をここで否定します。1896年23日にスぺインに対する武力闘争を宣言して、1896年8月29日にはマニラ近郊で同士を集めて、スペインに対する武力蜂起を行います。これがフィリピン革命のはじまりとなります。1897年3月のテヘロス会議において革命の主導権を巡り、プリンシパリーア層出身のアギナルドと対立しますが敗れてしまいます。そして1897年5月10日に反逆罪の罪名で、アギナルドにより処刑されて33歳の生涯を閉じます。
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エミリオ・アギナルド (1869~1964)
アギナルドはリサールより8歳、ボニファシオより6歳若く、1869年3月22日カビテ州に生まれます。プリンシパリーア層出身で父親がカウイト町長であり、アギナルドも若くしてカウイト町長になります。1895年マニラを訪れた時にボニファシオと出会い、秘密結社カティプナンに加入します。1897年テヘロス会議においてボニファシオを失脚に追い込み、革命軍の指導者になりました。その後、各地でスペイン軍と戦い、ビアクナバト協約による停戦受諾後、香港に亡命します。帰国後はアメリカ軍と同盟してスペイン軍と戦い、1898年6月12日カウイトでフィリピン独立を宣言。1898年9月、ブラカン州マロロスで国会を召集し、憲法を制定して、フィリピン第一共和国の初代大統領に就任します。しかし、その後の米比戦争でフィリピン第一共和国は、アメリカに敗北してしまいます。捕らわれたアギナルドは、アメリカに忠誠の誓いを立ててしまいます。その後の第二次世界大戦期には、日本軍に接近するなど日和見的な行動が目立ちます。
※プリンシパリーア層・・・・フィリピンのスペイン植民地支配下における先住民のエリート階層の事を指します。スペイン植民地支配下で再編成されて下級役人の役割を果たしました。
それでは、リサール・ボニファシオ・アギナルドのそれぞれの人生を大きく動かしたフィリピン革命について解説していきましょう。
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フィリピン革命(ビアクナバト協定までの解説)
1892年、香港からフィリピンに帰国したリサールは、7月2日にフィリピン同盟を結成します。しかし、7月6日にリサールは逮捕される翌日7月7日にミンダナオ島ダピタンに追放されます。ボニファシオは、リサールが追放されたまさにその日である1892年7月7日、フィリピン独立を求める秘密結社カティプナンをマニラ市内トンド地区で結成しました。そして、1896年5月4日にはフィリピンに寄港した日本海軍の練習艦「金剛」に乗船していた日本軍人との接触を求めて、ボニファシオらが「金剛」の世良田亮(せらたたすく)艦長と会談し革命への援助を求めました。しかし1896年 8月19日にカティプナンの陰謀が新聞で報道されたことを契機にスペイン植民地政府はカティプナンのメンバーを逮捕する方針を打ち出します。追い詰められたボニファシオは8月23日に武装宣言を行い、8月29日に武装蜂起をします。しかし、ボロや弓矢、竹槍などの粗末な武器で武装したボニファシオ軍は、スペイン軍に敗北を重ねます。ボニファシオ軍の敗北の報告を受けたアギナルドは、8月31日に独自の軍を編成して武装蜂起を宣言します。アギナルドはスペイン軍を打ち破り、カビテ州東部の支配が確立します。そしてボニファシオを中心とするカティプナンから分離して、独自の勢力を形成するようになります。一方、同年1896年にミンダナオ島ダピタンの追放が解けたリサールですが、スペイン植民地政府は、リサールがフィリピン革命に関係しているとして逮捕します。そして、リサールは同じ年の12月30日に処刑されてしまいます。リサール処刑は独立派の反発を一層かき立てることになりました。このリサールの処刑の前後から、独立派内部の抗争が顕在化します。独立派内のプリンシパリーア層を代表するアギナルドと、貧民・平民層を代表するボニファシオは、独立派の指導権を巡って、激しく対立することとなります。アギナルドはもともとスペインによりカビテのカウイト町長に任命された人物で、地方社会で力を持つプリンシパリーア層の出身者でした。資産家・大土地所有者も多かったプリンシパリーアの層は、自分たちの利益と財産を維持拡大することに関心がありました。ボニファシオ派による平等な社会改革の要求についても、自分たちの社会基盤を揺るがしかねないと、敵視していました。1897年3月22日のカティプナン指導部によるテヘロス会議で両者は対決しましたが、スペイン植民地軍との戦いで勝利をおさめていたことから、優位に立っていたアギナルド派が会議で優勢となり、会議ではアギナルドを革命政府大統領に選出します。このテヘロス会議の結果、伝統的支配エリート、地主層が純粋に革命を追求しようとする貧民、平民層を破り優位に立ったということですね。この会議に敗れたボニファシオは、独自の革命を目指しますが、ボニファシオ派の離反を恐れたアギナルドに捕らえられて、ボニファシオは1897年5月10日に処刑されます。これによりアギナルドは独立派の全権を手にします。その一方、スペイン本国から兵力を補給され、態勢を立て直した植民地軍は反撃を始め、一時はルソン島中南部を掌握していた独立派は、ボニファシオ処刑の翌日には根拠地のカビテを放棄し、山岳部のブラカン州ビアクナバトに追いつめられます。ここでアギナルドらは同年11月1日独自の憲法であるビアクナバト憲法を制定して、ビアクナバト共和国「フィリピン共和国」の成立を宣言しました。しかし独立派の劣勢は覆すことができずに、11月18日から12月15日にかけて、アギナルドは、スペイン総督との和平協定を結び、スペインによる改革実行の確約と補償金を条件にアギナルドらは香港に亡命します。この後もフィリピン革命は続くのですが、今回のフィリピン革命についての説明はここまでにします。
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誰が一番の英雄なのか?
自分たちの既得権益を守るために、日和見的で積極的に妥協するアギナルドは、自身の社会的階層に縛られた利己的な人物だという見方ができるでしょう。リサールは、そのペンの力と自身の思想で非暴力的にフィリピンを変革しようとしました。その姿勢は尊ぶべきものですが、現実の前では無力でした。ボニファシオは、ホセ・リサールの名前の影に隠れてしまいがちですが、私欲を捨てて、スペインからの独立と社会の平等化のために、行動を起こした人物です。不幸にもボニファシオは志半ばで亡くなりますが、もし彼が長く生きていたら、フィリピンの歴史は、今と大きく異なるものになっていたでしょう。三人とも、フィリピンにとって偉大な英雄であることは間違えありませんが、その中でも、ボニファシオがやはり一番の英雄という気がしてなりません。フィリピンでは長い間、フィリピン革命の主要な担い手は、プリンシパリーア層に代表される富裕なエリート知識階級であるとされてきましたが、1956年のテオドロ・アゴンシリョという人物が書いた、『大衆の蜂起――ボニファシオとカティプーナンの物語』という本の出版を契機として、ボニファシオがフィリピン革命を担った民衆の指導者として国民の英雄と見なされるようになりました。こうしてフィリピン革命の英雄として陽の目をみたボニファシオですが、まだまだフィリピンは、ボニファシオが目指した社会的平等とは程遠いのが現実です。格差・汚職・暴力がはびこっています。ボニファシオの遺したその精神は、この先に生かされることができるのか。今もまさに問われているといえるでしょう。
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